Masuk日立みやびは典型的な虐げられ妻。 夫の初恋が帰ってくることを知った彼女は自ら身を引くために偽装死して”本業”に復帰する。 しかし夫は彼女への愛に目覚めて彼女を追いかけ始めて…… 竿強な妻と最弱な夫による追いかけっこが、今、始まる
Lihat lebih banyakその頃、史緒里は――すでに作戦行動を開始していた。霞ヶ浦警備保障裏部門のエースである彼女は復讐者から狙われることも多い。ゆえに、こうした事態に対する非常用プロトコルが用意されており、行動は実にスムーズだ。まずは一般人を巻き込まないための配慮として、夢の国から極秘裏に脱出。園内に張り巡らされた水路を利用して海へ出る。そこにはすでに貴理子が手配しておいた水上バイクが置いてあった。史緒里はハンドルに括り付けられていたメモを読む。「なーるほど、そういう作戦ね、了解」隠密行動ならば、見通しのいい海上に出るのは悪手。だが、今回の史緒里の役目は囮。おそらくどこかから監視しているはずの敵に姿を見せつけて、夢の国から彼らを引き剥がすのが目的だ。史緒里はモーター音をあたりに響かせ、ド派手に水飛沫をあげて海の上を走った。目指すは夢の国と川一本挟んだ対岸にある臨海公園。広場の方は電飾で飾られた大きな観覧車が立っているデートスポットだが、その灯も届かない人工海岸側は、この時間になれば人影もない。史緒里は水上バイクを乗り捨てて、海岸へと駆け上がった。夜色に変わり始めた空の下、沖合の方で一隻の船が動く。史緒里はわざと目立つように海岸に沿って走る。船がますます近づいてきて止まった。おそらく接岸のためのボートを降ろしているのだろう。甲板の上をいくつもの人影が走り回っているが、ボートひとつ下ろすのにも手間取っているあたり、高度な戦闘訓練を受けた玄人集団というわけではなさそうだ。だが、海沿いの立地を考慮して海と、おそらくは陸にも人を配置して、挟撃を狙っている気配がある。戦いのセオリーを知っているあたり、まるっきりの素人しかいない集団というわけでもなさそうだ。「寄せ集めの下っ端たちの中に司令塔が何人か、というところですかね」史緒里はポップコーンバックからインカムを取り出し、耳に装着する。「“掃除屋”だけで結構です。主力はこちらで片付けておきますから」その後、まばらに生えた松の林の中へ駆け込み、ポップコーンバックからリール式のワイヤーを取り出す。史緒里は木々の間を走り回って、それを張り巡らせた。さらに夢の国への潜入用コスチュームを脱ぎ捨て、黒い戦闘用ボディスーツ姿になる。脱いだ後のコスチュームを、敵の視線を惹きつけるために手近な低木に着せつける。こ
史緒里は“緊急事態”で夢の国からの離脱を余儀なくされた。ということで、祐市とキョースケは迷子センターに預けられた。ちょこちょこっと歩み寄ってきた子供が無邪気に聞く。「ねー、おじさんは大人なのに迷子なの?」キョースケは鼻の頭にシワが寄るほど顔をしかめて低い声で答える。「失せろ!」対する祐市は、子供たちに囲まれても、なお無頓着。「そうだな、大人だって迷子になることはある、特に、愛はいつだって迷宮だ」「こっちのおじさんはおもしろ〜い」あっという間に、一人で不機嫌そうな顔で座っているキョースケと、子供たちに取り囲まれて平然としている祐市、という構図が出来上がった。史緒里の姉である貴理子が迎えにきた時には、祐市はすっかり子供たちの人気者になっていて、ボイパの基本を講義している最中であった。「難しく考えることはないぞ、キッズ、ここにボイパが上手になる魔法の呪文がある」「「「まほーのじゅもんー?」」」「ああ、呪文を唱えよ! それは“ひっつくパンツかむかつくパンツか”!」「「「ひっつくパンツー!」」」「もっと早く、こうだ! ひっつくパンツかむかつくパンツか、ひっつくパンツかむかつくパンツか、ドゥンドゥンドゥドゥンドゥ、人生いつでも五里霧中、四六時中でもさまよい中……」貴理子はそんな祐市にスパーンとドツキを入れる。「子供に何教えとんねん!」「誰だ、お前は」「あっ、あっ、すみません、私、霞ヶ浦警備保障裏部門、サイバー事業部統括責任者、霞ヶ浦貴理子という者で……」彼女は慌てて取り繕うけれども、祐市は容赦なくボケ倒す。「霞ヶ浦……なるほど、史緒里のお姉さん。ということは、俺のお義姉さん」「いちいち微妙な韻踏むなや!」どこに隠し持っていたのか、真っ白なハリセンがスパーンと振り抜かれる。ようやく真っ当なツッコミの登場である。ともかく、貴理子は大人二人を迷子センターから引き取った。別れ際、祐市は子供たちに向かって手を振る。「恐るるなキッズ、親御さんは必ず迎えに来てくれる、それでも不安なら信じて叫べ、say“ラブ”!」「「「「らーぶ!」」」」スッパーン!「いやほんっっっと、子供に何教えとんねん!」貴理子はハリセンを片手で弄びながらぶつぶつ。「なんなのこいつ、ボケが酷すぎてエセ関西弁が出ちゃうじゃない」その隣で、祐市は深く頷く。「
史緒里が二人につけられた理由は、ぶっちゃけお守りという名の監視役。だが、護衛対象に危害が及ばない限りは、個人の自由行動を制限する権限はない。ゆえに、財力という名の暴力を振るう二人を完全に止めることはできない。祐市とキョースケは早速、イベントステージの一枠を買い上げた。夢の国のキャラクターたちが歌ったり踊ったりといった小さなショーを見せるための“ドリームステージ”である。二人は設備チェックのため、ショー前の舞台に上がる。祐市は師匠ヅラ。「女の心にダイレクトに愛を届けるには、歌が効果的だ」「なるほど、ありったけの愛を込めて歌えということか」「ちなみにお前、人前で歌うのは?」「カラオケならよく行くが」「ほう、どんなジャンルを?」「カンツォーネだ」舞台袖で見守っていた史緒里が、堪えきれずに声を上げる。「なんで⁉︎」祐市は余裕の表情で、マイクを手に取る。「史緒里、音楽の好みは人それぞれだ、カンツォーネ、いいじゃないか」音質を確かめようと、彼はマイクに口を寄せて、次の瞬間……「ドゥンドゥン、ツクツクパッ、タッタッタ、ドゥンドゥン!」「ビートボックス! しかも凄腕!」祐市はドヤ顔。「音楽は御曹司の嗜みだからな」「いや、御曹司の音楽の素養って、普通はクラシックとか……」「クラシックか、嫌いじゃない、だが俺のソウルをパンプするにはビートが足りない」「……ちょっとかっこよく見えるのが不思議」「さあ、俺たちは開演準備をしなくちゃならない、史緒里、お前は客席で待っていてくれ、俺の愛をお前に……届ける!」やがてステージが始まる。結子は田中と寄り添いあって、ステージに近い最前列の席に座っていた。ソンブレロハットを被った陽気そうな鳥の着ぐるみが舞台から降りて、結子に花束を渡した。それからイカしたポーズでピシッと結子を指差す。もちろん中の人はキョースケ。その鳥は舞台に駆け上がり、イタリア語で歌い出した。曲はカンツォーネの代表曲かつ名曲である“帰れソレントへ”だ。しかもキョースケ、何気に本格的。張りと深みのある声で、しっとりと物悲しく流れる歌声は美しい。美しい、が、ここは夢の国。観客の半分は親に連れられてきた子供たちだ。「ねえ、あの歌なーに?」「楽しくなーい」盛り下がる盛り下がる。そこに、もう一匹の鳥が割って入り、マイ
ハイウェイを2台の車が爆走してゆく。一台は祐市の愛車、トヨタAE86。もう一台は結子の送迎用に用意されたロールス・ロイス・ファントム――およそハチロク十数台分のお値段の超高級車である。「車は値段で走るものじゃない、魂で走るものだ!」祐市がガココンと荒々しくシフトアップする。対するロールス・ロイスのハンドルを握るのは史緒里だった。ちなみに元々の運転手は後部座席に座らされて、この公道レースをただ見物させられている。「見せてもらおうか、ポンコツ御曹司の魂の性能とやらを」史緒里の走りは果敢だ。超高級車が傷つくことすら恐れず相手の車体スレスレを抉るような走りでイン側に滑り込んでゆく。ど派手なエンジン音を響かせる車体を音もなく抜き去って、ロールスロイスは走り続ける。助手席で優雅にティーカップを揺らしながら紅茶を飲む結子は、小さな笑い声を上げる。「ふふっ、この車でこの走りを見せる方は、世界広しといえどあなただけでしょうね」後方に小さくなってゆくハチロクをバックミラー越しに眺めながら、結子は史緒里に聞いた。「あんなに必死になって追いかけられて、ちょっと心揺れたりしませんの?」史緒里はアクセルを緩めながら、小さく首をすくめる。「そういう結子さんはどうなんです? 情熱的に追いかけられているじゃないですか」「いや、絶対に嫌、ありえないですわ」「そういうことですよ」「全然違いますでしょう、私、キョースケさんのことは生理的に無理ですけれど、あなたは彼に対して、まだ心が残っていますでしょう?」「どうしてそれを!」「見ていればわかりますわ。ねえ、復縁してあげたりしませんの?」史緒里は黙ってハンドルを切った。長い沈黙が車内に流れた。どのくらいそうしていただろうか、史緒里は深いため息をついて言った。「これ、祐市さんには内緒にしてくださいね……好きか嫌いかで言ったら、好きですよ」「だったら!」「でも、ダメなんです、私の仕事はご存知でしょう?」霞ヶ浦警備保障裏部門――表側の普通の警備とは違い、命がけの仕事を受け持つことも多い危険な部署である。今回だってマフィア相手に大立ち回りを繰り広げたり、マフィアに銃を突きつけられたりするような状況がいくらでもあったわけで。「だけど、あなたはお強いでしょう?」「ええ、まあ、私は、そうですね」史緒里の横顔
日立みやびは恋愛小説でよくみる、いわゆる”虐げられた妻”である。みやびの嫁ぎ先である日立家は由緒正しい大財閥であり、義母はそこに入り込んだ”庶民”である嫁を嫌い抜いている。気まぐれに嫁を呼びつけて雑用や宴の下働きを押し付けるなんて日常茶飯事、口を開けば嫌味ばかり、時には”家訓”と称して体罰を与えることもある。夫――日立祐市(ひたちゆういち)は祖母がどこかから拾ってきた”庶民の嫁”であるみやびを恥ずかしく思っている。当然結婚式などは挙げていないし、世間に結婚を公表することもない。「俺には初恋の女がいる」と言って憚らず、みやびのことを都合の良い家政婦であるかのように扱う、まさにお手本通